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日本の電力事業をより良くする/電力事業によって日本をより良くする ために考えたこと

電力事業はなぜ地域独占であるべきか?②

※電力事業はなぜ地域独占であるべきか?①の続きです。要旨は以下の通り

地域独占は、安定供給の利点と高コスト構造の欠点の両面ある
・日本においては高度経済成長が終わった時点で地域独占の役割は終わった
・かといって、市場原理を導入すれば電気料金が下がるかというと、そう単純ではない
・さらに、市場原理に任せると不採算な地域への電力供給が維持できないリスクがある

電力事業はなぜ地域独占であるべきか?① - powerspot.hatenadiary

 

さて、①を書いている途中で以下のようなツイートが気になりました。

 

このツイートを見て思ったのですが、もしかして電力自由化や各種インフラ事業の民営化って、採算が合わない地方のインフラを市場原理で縮小して、過疎地の村々を間伐しようとする意図があるのでは…?

 

日本は少子高齢化、人口は減少する一方。経済成長も期待できない

→地方の過疎地はインフラが維持できなくなるので、地方ごとに集約していかなければならない

→でも集約のために潰れる町や村を決めることは政治的には不可能

→インフラ事業を市場原理に任せることで、インフラ維持の採算が合わないところから潰していく??

 

これが過疎地を撤退させていくための本質的な解決策と言えるのか?(おそらくちきりんさんは市場原理に任せると共倒れするよ、といっているのでしょうが…)しかし政治的に取捨選択するのが難しいのならインフラから潰していくのは次善的な解決策と言えるのでは…

もしそういうことならば、我々インフラ事業者は、政治の代わりに「本質的な解決」を図る、すなわちインフラや都市機能の集約の旗振りをしなければならないのでしょうか。

我々は今まではとにかく発電所や送電線を増やして、どんなところへも電気をお届けすることを使命としてやってきたわけですが、ひょっとしたらこれからは考え方を180度変えていかなければならないのかもしれません。

 

最後に、再びツイートの引用ですが

 

 

果たしてこれが電力業界にも当てはまるのかどうか…。

 

電力事業はなぜ地域独占であるべきか?①

※本文が長くなってしまったので先に要旨を述べます。
地域独占は、安定供給の利点と高コスト構造の欠点の両面ある
・日本においては高度経済成長が終わった時点で地域独占の役割は終わった
・かといって、市場原理を導入すれば電気料金が下がるかというと、そう単純ではない
・さらに、市場原理に任せると不採算な地域への電力供給が維持できないリスクがある

 

 

〜以下本文〜

 

先日、このような記事が目に入り、気になりました。

インフラ、民間への売却容易に 自治体の負担軽く: 日本経済新聞

電力業界も自由化が始まったところですが、記事の内容も流れとしてはそれと同じものと言えるかと思います。

 

電力事業をはじめとするインフラ事業は、地域独占(あるいは公営)と自由化(市場原理)のどちらがより適切なのか?

これについて明確な結論を出せるほど筆者は専門家ではないのですが、地域独占と市場原理それぞれの特徴について検討することは意義のあることではないかと思います。

 

まず、地域独占について考えますが、これについては急激な需要増に耐えうるという利点と、高コスト体質になりやすいという欠点があるように思います。

 

急激な需要増に耐えうるという点に関しては、まさに戦後〜高度成長期の日本が該当します。経済成長とそれに伴う電力需要増が確実に見込まれる場合、地域独占にして事業のリスクを極限まで下げることにより、発電所建設の投資がしやすくなり、電力の安定供給を図ることができます。(後に詳述しますが発電所は40〜50年間安定運転して初めて採算がとれる設備なので、地域独占などの保証なく投資をするのはそれほど簡単ではありません。電力が足りないが為に国全体の成長が頭打ちになるのはもったいないので、国全体が成長局面にある場合には、地域独占という方法にも一定の合理性があると考えて良いと思われます。)

 

一方、競争に晒されないということを考えると、コスト削減に対するモチベーションは上がらないため、一般的に独占事業は高コスト体質になりやすいと言われます。

個人的には独占時代の電力会社の人たちが技術的に「手を抜いている」という風には思わないのですが、手を抜く以外にも、「安定供給の観点から不採算な地域への電力供給を排除しにくい」「発電所がある地元の方々の雇用や業者さんの利益を提供するために採算に目をつぶって発注をしている仕事がある」などの高コスト要因があるのは否定できないと思います。特に後者については、筆者が発電所で働くようになって、そういう場面をよく見るなぁと感じます。(ただし、発電所の建設・運営は地元の協力・理解に依存するところが非常に大きいので、単純な否定は難しいとも感じるところです。)

 

以上より、電力事業の地域独占は「高度経済成長には貢献したが、需要が頭打ちになった20年前には賞味期限が切れていた」というのが筆者の考えです。

 

 

続いて、市場原理について考えます。

電力小売業界はこれまで地域独占だったのを自由化して市場原理に任せるようになりました。

従って、現状では我々は電力(小売)事業には市場原理を適用する方が有利であると考えているということになります。

ここで、市場原理の方が優位であることの根拠として、競争の原理が働くことによって業務の効率化を図る動機が生まれ、結果的に供給コストが下げられる(電気料金が安くなる)という点が良く挙げられます。

これについては一般的にはその通りであると思います。市場では常に需要と供給がマッチングされ、電気は安いものから順に売れていきます。さながらAKB48の総選挙が毎日おこなわれているような環境で、リアルタイムで民意が反映されるのが市場原理ということができるのではないかと思います。

 

しかしながら、市場原理が電気料金に与える影響として、電力(発電)事業においては以下の2点に留意する必要があると考えられます。

 

1.資金調達コストの影響

最近、このような記事を見つけました。

原発の電気は安いのか?(後編) – NPO法人 国際環境経済研究所|International Environment and Economy Institute

記事中に、松永安左エ門の「金利の高低は、実に電気の原価を左右する」という言葉が紹介されています。

これは発電所の運営に関しては特にその通りといえるものだと思います。原発や火力発電所のような大型の発電所は、建設時に多大な投資をして、それを40〜50年で回収する、すなわち50年ローンみたいなものです。

ここで、昔の地域独占では50年後にもその発電所の電気が売れる(ちゃんと投資が回収できる)と予想し易かった(リスクげ低かった)ため、安い金利でお金を借りれましたし、資金調達コストが低かったと考えられます。

しかし、現在の自由化市場では、(自由化だけが原因ではないですが、)50年後にも発電した電気が売れる保証のある発電所などありませんから、事業のリスクは高い=金利が上がります。

50年という長い期間を要する事業において、この金利上昇の影響は無視できないと考えられます。

 

2.在庫が持てないということ

電力は現状では貯めておくのが難しい(コストがかかり、ロスが多い)商材であり、従って瞬間毎の需要と供給を常に一致させなければなりません(同時同量)。

これが自由化した際の電気料金にどう影響するかは、例えば以下の書籍が参考になります

 

市場を創る―バザールからネット取引まで (叢書“制度を考える

市場を創る―バザールからネット取引まで (叢書“制度を考える") (叢書“制度を考える”)

 

 この本の電力市場(有名なカリフォルニア停電の件)についての項では、以下のような指摘がされています。

電力という商品が持つ特別な性質が、電力市場のパフォーマンスを特に設計に対しセンシティブなものにした。電力貯蔵の費用は高くつくので、電力は必要に応じて生産されなければならない。しかも需要は時間や季節ごとに大きく変動する。

需要のピーク時には、少数の発電所を除くすべての発電所が最大能力で操業している。そして、そのようなときでも、ほんの少数の限界的な生産者のみが高い価格をつけることができるだけである。

たいていの市場では、高価格が自らに終止符を打つ。高い価格が新規生産者を当該産業に引きつけ、このことが価格を低下させることになるからである。しかし、電力に関しては、たとえ高価格が引きつけたとしても、長期においてさえ、需要を満たすための増加は徐々にしか起こらない。新たな発電所こ建設には数年かかるからである。

同時同量の原則がある中で、需要が増えたとしても供給を増やす(発電所を新設し供給力を増やす)には数年かかる場合がある点、さらには電力の価格弾力性の低さ(値段が高くても買わざるを得ない)の影響によって、市場原理が上手く機能しないことがあると述べています。

(尚、本書の主張は電力小売に市場原理を取り入れるなら、上記のような電力事業の特性を踏まえてきめ細かい市場設計が必要というものであり、市場原理がダメとは言っていません)

 

 以上の通り、電力小売事業については市場原理を適用する=競争によって電気料金が安くなる、と無条件に考えるのは適切でないと考えられます。既に電力自由化している日本では、これから試行錯誤を繰り返して市場設計の改善を続けていく必要があると思います。

 

また、市場原理について考える際により重要なのは、電気が人間の生活に必要なライフラインである点です。

この点について、先に述べた資金調達コストが上がるという側面が影響を及ぼします。

資金調達コスト(金利)は、「金利を上乗せして返せるくらい、しっかり儲かってね」という意味合いにも解釈できます。

より踏み込んで言えば、「資金調達コストを賄えない(儲からない)事業はなくなるべき(他の儲かる事業に投資した方が、社会全体のためにもなる)」という考え方が背景にあると考えられます。

すなわち、市場原理に任せると経済的に成り立たない地域への電力供給は維持できなくなるということです。

 ここで、前半で述べた市場=AKB総選挙という側面がまた影響してきます。すなわち、市場原理はリアルタイムで民意を反映できる反面、「1人1票ではない(お金持ち・大口需要家ほど影響力がある)」ということです。

 以上のとおり、市場原理に任せると弱者が切り捨てられる可能性があるということは、留意しなければならないことだと思います。

(※当然、そうならないような制度的な措置…供給責任を課すこと…がとられるわけですが、これは営利企業に不採算事業を強制することになるので、少なからず歪みの原因となります。カリフォルニア停電の一因ともいわれています。)

 

 

 以上、長くなってしまったのでまとめを再掲します。

地域独占は、安定供給の利点と高コスト構造の欠点の両面ある

・日本においては高度経済成長が終わった時点で地域独占の役割は終わった

・かといって、市場原理を導入すれば電気料金が下がるかというと、そう単純ではない

・さらに、市場原理に任せると不採算な地域への電力供給が維持できないリスクがある

 

電力市場の制度設計については考慮しなければならないことが多く、まだまだ勉強不足なので、勉強したらまた書いていこうと思います。

マーケティングの4Pと電力

社会人になってから少し意識が高く(?)  なってMBAの勉強本を読んだりするようになりました。

きっと学校などに通って本格的に学ばないと実務には生かされないんだろうとは思いますが、本に載っているフレームワークを見るだけでも、思考や情報を整理するのに便利で役に立っているなぁと感じます。

 

グロービスMBAキーワード 図解 基本フレームワーク50

グロービスMBAキーワード 図解 基本フレームワーク50

 

 

 

その中で、筆者が特に気になったフレームワークの1つが「マーケティングの4P」でした。

マーケティングの4P」とは、売れやすい商品とその売り方について整理したもので、

 

①Product(商品)

→どのような機能の商品を売るか

②Price(価格)

→いくらで売るか

③Promotion(プロモーション)

→どのように認知度を上げ、商品の魅力を伝えるか

④Place(流通)

→どのような方法で、顧客が商品を買えるようにするか

 

以上の4項目です。

 

このフレームワークMBAの本でもかなり序盤に出てくる基本的なものですが、なぜ筆者が特に気になったかというと、

『小売自由化した後の電力会社は4Pの中で差別化できる項目が非常に限定される』

と考えられるからです。すなわち、

 

①Product(商品)
→電力系統は繋がっているので、どこから買っても「完全に同じ」
②Price(価格)
→差別化できる
③Promotion(プロモーション)
→差別化できる(とは言え、商品が全く同じであることは留意する必要あり)
④Place(流通)
→電力系統は繋がっているので、基本的にどこから買っても同じ

 

 ということです。

逆に、電力小売において差別化出来ると考えられる項目から考えると、

 

・発電方法

→発電方法を変えてもコンセントから届いてくる電気は変わらないため、Product(商品)の差別化にはなりません。しかし、発電方法によって原価構造(原価そのもの、固定費と流動費の割合)が異なるため、Price(価格)の差別化要素にはなります。また、『環境に優しい』を謳ってPromotionの差別化も可能でしょう。

 

・セット販売

→セットで販売したところで商品そのものに相乗効果が発生する(電気そのものの品質が良くなる)ことはないので、これもProductの差別化にはならないといえます。セットにすることでトータルの料金を割安に出来るならPriceの差別化に、支払いや申し込み等の手続きがまとめて出来るという利便性を推すならばPlace(流通)の差別化が出来るといえると思います。

 

・ブランド

→筆者にとっては切ない話ですが、例えば『福島県をめちゃくちゃにした東京電力からは電気を買いたくない!』という方がいれば、それはそれで仕方のないことではないかと思います。そういう意味で、企業のイメージ(ブランド)によって電気の購入先を決めるということもあり得るでしょう。Productの差別化が出来ないだけに、こうしたPromotionの差別化は無視できない要素だと考えられます。

 

だいたいパッと思い付くのは以上のような内容だと思います。

色々書きましたが、正直言って電力の販売は、『身を削って安売りする』以外の戦い方を探すのが難しい商材だと言わざるを得ません。

 

当然、上に述べた分析は完全な正解ではないです。

むしろ上に出ていない(素人では簡単に思いつかない)差別化要素が見つかれば、それは模倣のしにくい(競争力の高い)差別化になるといえます。

 

以上より、電力業界ではこの4Pの分析(差別化要素の模索)は『常に』行っていく必要があります。

そうしないと、Price(価格)だけの競争を強いられることになり、それでは仮に競争に勝ったとしても十分な利益が得られないおそれがあるからです。

 

…となると、企業のブランド力というのは利益が得られる形で競争に勝っていくためには非常に重要なことなのではないかと筆者は考えています。

この時、他社の失点に期待する以外の方向性としては、「この会社の電気を買い支えれば、地元のインフラをより良くしてくれそうだ」と思っていただくことなのではないかと筆者は考えます。

すなわち

インフラ事業は文明を興すためにある - powerspot.hatenadiary

 

 

『正しい』の意味とは(朝日新聞の件を見て考えたこと)

筆者はそこまで新聞を読む方ではないのですが、朝日新聞の「エビデンス?ねーよそんなもん」の件

エビデンス? ねーよそんなもん:日刊ゲンダイの朝日新聞・高橋純子氏インタビューに戦慄が走るTL【日刊アサヒ】 - Togetter

を見て(エビデンス〜のくだりは、実際には記事の中身のことを言っているのではないようですが)、新聞について日頃何となく考えていたことがあったのを思い出しました。

 

新聞が、読者にとって価値のある情報源であるためには、『書いてある情報が信用できる』ことが最も重要なことではないかと思います。

 

すなわち、新聞社・記者にとって最も重視すべき信条は『正しい』ということなのだろうと思います。

(電力業界では、安定供給です。そういった何か「絶対に譲れない」みたいなものはどの業界にもあるかと思います)

 

ここで、筆者が持っていた『正しい』の定義と、新聞社が持っている『正しい』の定義が、何となくずれている(ずれてきている?)と感じることが最近多くなってきました。

 

それは、『正しい=正確・事実』と、『正しい=正義』の違いです。

 

簡単な例をあげるならば、容量が200mlのコップに100mlの水が入っているとき

 

「容量が200mlのコップに100mlの水が入っている」

と、ありのまま表現するか、

 

「100ml 『も』 水が入っている」

「100ml 『しか』 水が入っていない」

と表現するか。

 

後者は、確かに事実ではありますが、『も』とか『しか』を入れることによって読者に特定の印象を与えています。

これは、例えば「容量が200mlのコップには200mlの水が入っている『べき』」というような、暗黙の基準(=正義)があるから出てくる表現ではないかと思います。

 

新聞社の方々は、ひょっとしたら読者に正確な情報を伝えることとは別に、『正義に導きたい=啓蒙』のような動機を持っているのかもしれません。

しかしながら、筆者としては「正義を判断するのは読者、新聞はその判断するためのエビデンス(=事実)を提供する」というスタンスの方が、良心的であるように思います。

 

もちろん、「コップに100ml 『しか』 水が入っていない」という程度の表現であれば、事実の範囲を逸脱してないですし、新聞社ごとの個性と言えなくもないです。

しかし、これが度を過ぎて「正義ならばエビデンスなんてどうでも良い」とか「判断するために必要な、明らかに重要な情報をあえて伝えない」などということになると、社会にとってむしろ悪影響があるのではないかと考えます。 

 

(…などと考えていたら、ドラッカーのマネジメントに、筆者が言わんとすることがそのまま書いてありました。

「知りながら害をなすな」

医師、弁護士、組織のマネジメントのいずれであろうと、顧客に対し、必ずよい結果をもたらすと保証することはできない。最善を尽くすことしかできない。しかし、知りながら害をなすことはしないとの約束はしなければならない。

顧客となる者は、プロたる者は知りながら害をなすことはないと信じられなければならない。これを信じられなければ何も信じられない。

ドラッカー「マネジメント 上」より

 

ドラッカー名著集13 マネジメント[上]―課題、責任、実践

ドラッカー名著集13 マネジメント[上]―課題、責任、実践

 

 

…これはむしろ、電力業界こそ肝に銘じるべき内容ですね)

 

 

…以上の論点は、特に電力業界は「正義の鉄槌を下される側」なので、引き続き社会の動向を観察しつつ、検討をしていきたいと思います。

放射能汚染の風評被害の話とか、再生可能エネルギーの送電線への接続の問題とか、別に事実を伝えたからといって「電力会社=悪」に加担することになる訳じゃないんだから、しっかり事実は事実として伝えていって欲しいなぁと他力本願ながら思います。

当然、電力事業者の方がやるべき事はたくさんある訳ですが。)

個性は強ければ強いほど価値がある(熱力学的に)

発電所の性能を表す熱効率は、一般的にエネルギー効率(投入したエネルギーのうち、何%を電力として取り出せたか?)を用います。

ちなみに筆者が働いている石炭火力発電所の熱効率は40%くらいです。

これは、石炭が有するエネルギーのうち、40%が電力になり、残りの60%は冷却用の海水や煙突からの排ガスによって外部へ捨てているということを意味します。

 

こう見ると、発電所は非常に無駄の多い設備だなぁと考える方も多いと思います。

(ここではLNGのGTCCと比較するのはやめましょう)

 

 

しかし、熱力学では上記のエネルギー効率では分からない、「本当はどれだけ無駄があるのか?」を知るための指標として、『エクセルギー』というものがあります。

 

エクセルギーの説明の前に、実は発電所の効率には理論的な上限があります。この上限はカルノー効率といいます。

詳細説明は省きますが、カルノー効率は以下の式で求められます。

 

カルノー効率 = 1 − (低温熱源の温度 / 高温熱源の温度)

発電所では、低温熱源は海水、高温熱源は燃料の燃焼ガスです。それぞれを27℃(300K)、1527℃(1800K)とすればカルノー効率(理論熱効率)は83%くらいでしょうか(数字はだいたいです)。

 

上記の式より、熱源(エネルギー源)から取り出せる電力(仕事)の量は、海水(=周囲環境の温度)と熱源との温度差が大きければ大きいほど増えることが分かります。

そして、この熱源から取り出せる電力の理論的な最大量をエクセルギーと呼びます。

 

エクセルギーという指標から分かることは、同じエネルギー量の熱源でも取り出せる電力(仕事)の量が違う(=価値が違う)ということです。

上記の説明の通り、熱源は高温であればあるほど(=エネルギーの密度が高いほど/周囲環境からかけ離れているほど)価値があります。

※熱力学の説明がややこしいと思われた方がいれば、「南極より南国のほうが、かき氷の価値が高い」と考えればいいのではないかと

 

 

さて、ここからが本題です。

熱力学的には、熱源(エネルギー源)は周囲環境からかけ離れているほど価値があることを説明しました。

筆者は、これは人材にも当てはまるのではないかと考えます。

つまり、全科目平均点の器用貧乏よりも、何か1つだけでも突出したものがある人の方が、価値がある(=天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずですから、『より多くの仕事を取り出せる』と表現するのが適切かもしれません)といえます。

 

この傾向は、多くの人と人とが協力し合って1つの仕事を成し遂げる時などには特に言えることなのではないかと思います。(突出したものがある人は、得意なことに集中して、苦手なことは他の人に任せればいいので。)

また、インターネットが普及してからこの傾向は更に加速している感があります。

 

 以上の視点を持つと、燃料の扱いと人材の扱いには重要な共通点があることに気づきました。

それは、「エクセルギーの高い(個性が強い、エネルギー密度の高い)燃料・人材ほど、取り扱うには高い技術が必要で、その代わり多くの仕事を取り出せる」ということです。

 

先に燃料の話をします。

燃料で最もエクセルギーの低い(取り出せる仕事は小さいが、取り扱いは簡単)ものは、太陽光です。人は、洗った衣服や食料を日に当てるだけで乾燥させるという成果を得られます。

次は薪や落ち葉で焚き火をする場合です。焚き火をするには特に免許とかは不要ですが、注意しないと火事になったり火傷になったりします。その代わり、物を乾かすだけでなく、焼いたりすることもできるようになります。

更に、石炭・石油・ガスなどの化石燃料。これは薪などよりもエクセルギーが大幅に高く、危険なので取り扱いには免許が必要(…と言ってもしっかり勉強すれば多くの人が取れる難易度)ですが、当然取り出せる仕事・電力量は増えます。

究極は核エネルギーで、少ない燃料から非常に多くの電力を取り出せますが、果たして現在の人類の科学技術で安全に取り扱うことが出来ているのか?賛否両論になるほど、取り扱いが難しい燃料と言えます。

 

さて、ここからは人材についてですが、ここでは2つの例を挙げます。

 

1つは学校の教育です。日本の学校では、どちらかと言うと生徒の個性を抑えて、みんな同じである方が良いかのような教え方をしがちです。これは、先ほど述べた燃料の例に倣うならばら「その方が扱いやすい・管理がしやすいから」であると考えられます。

 

一方、Googleのような大企業では、むしろ個性の強い人材を集めて、しかもそのような人材が自由に仕事を出来るような環境を作るよう、努力しているようです。

これは、Googleが「突出した強みを持つ人が得意なことに専念することで、最大の成果を引き出せる」と考えているからだと思われます。

 

ワーク・ルールズ!―君の生き方とリーダーシップを変える

ワーク・ルールズ!―君の生き方とリーダーシップを変える

 

 

 

ここまでくれば筆者の論旨は言わずもがなかもしれませんが、要するに「日本の教育は個性を殺しがちだけど、これって海外は核エネルギーを使ってるのに対して、薪を大量にかき集めて戦おうとしているようなものなのではないですか?」ということです。

また、エクセルギーの高い燃料を取り扱うには高い技術が必要であるとも述べました。人材も同様で、個性の強い人材を取り扱い、成果を挙げるには高い技術(=マネジメント力)が必要なのではないかと思います。

故に、これからどの分野でも競争力を高めるためには人材の個性を大事にすること/人材の個性を引き出すマネジメント力を高めることの両輪をバランス良く頑張る必要があるのではないかなぁと考えています。

インフラ事業は文明を興すためにある

筆者は学者ではないので表題が学術的に真であるかどうかという点にこだわりはありません。

ただ、表題は筆者の、電力事業に携わる者としての志向・主義を示すものであります。


たとえば、四大文明と呼ばれる世界最古級の文明が生まれたのは全て大河の沿岸でした(例:エジプト文明ナイル川)。

これは単なる偶然ではなく、大河が生活用水、農業用水、下水、輸送・交通路などといった、人々の文化的な生活を支える「自然のインフラ」であったからではないかと考えられます。

 

このことはインフラの意義を考えるうえで重要な点を示唆しています。

それは、インフラがあるところに文明が発生するということです(文明が先ではない)。

すなわち、未開の地には始めにインフラが開発され、そのインフラが多くの人を惹きつけ、技術が集まり、文化が生まれ、そして文明に至る。

インフラは文明の基礎であると同時に起源でもあると言えます。

 

こうした文明の起源たるインフラのことを筆者は「大河型インフラ」と呼ぶことにしたいと思います。

この大河型インフラには以下のような特性があると考えられます。

 

 ①利便性が高いが故にインフラの周囲に人が集まること
 ②人が集まることで、新しい技術やサービスが集まる(スケールしやすくなる)こと
 ③インフラやそれに集まってきた新技術やサービスによって、生活の(量的ではなく)質的な向上があること

 

上記の要件に当てはまるインフラとしては、明治~高度経済成長期までの電力、20年前のインターネット、現在ではLINE、将来的な可能性としては仮想通貨などが挙げられるように思います。

 

また、「大河型インフラ」の対となる概念として「大気型インフラ」も定義しておきたいと思います。

大気は、人間が生きる為に必要であるにもかかわらず、新たな文明を興すような力はありません。

これは、大河が限られた領域に存在する(供給域が十分ではない)のに対して、大気は地球上のほぼ全ての領域に潤沢に供給されている(供給が十分、あるいは過多である)ことに起因します。

生きる為に必須の要素が、ある特定の場所にのみ存在するとすれば、そこに人々が集結するのは自明です。

(当然、この理屈は地球上でのみ成り立つ話であって、月などの宇宙空間に地球と同じような大気が仮にあるとすれば、それは宇宙空間に新たな文明を興す起点とするのに十分すぎるほどの存在となるでしょう。このように、インフラの意義は極めて相対的・可変的なものであると筆者は考えます。)

 

日本における電力事業は、高度経済成長期までは「大河型インフラ」と呼んでも差支えないものであった(安定した電力供給は高度経済成長の為の数多くある必要条件の一つであった)と筆者は確信しております。

しかしながら、現在の日本の電力事業は果たして文明の起源となれているでしょうか?社会の進歩に貢献できているのでしょうか?何となく、社会からは電力供給はあって当たり前の「空気のような存在」になっていて、それ以上のものを期待されていないような気がします。

また我々電力事業者も、電力の安定供給という「偉大な現状維持」に満足してしまっているのではないか?という気がします。

 

以上のことから、筆者は電力事業に携わる者として、そしてそれ以前にインフラ事業に携わる者として、「偉大な現状維持」よりも「卑小な進歩」を志向し、電力事業を通じて少しでも世の中が現状よりも良くなる方法について考えていきたい(そして、いずれそれを実行したい)と思っています。

凡例(このブログについて)

凡例 ー 書物の巻頭にあって、その編述の方針や使用法などを述べたもの。例言。

凡例(ハンレイ)とは - コトバンク

 

 

1.このブログは、『日本の電力事業をより良くする』『電力事業によって日本をより良くする』ために、個人的に検討したことを掲載するものです。

 

2. 具体的な内容としては以下を想定しています。(随時追加あり)

 

  ①電力事業によってどのようにして世の中を良くするか

  ②発電所(職場)をより良くするためのあれこれ

  ③最近気になった話や書籍(電力屋の視点を踏まえて)

 

3.管理人プロフィール

 近藤 航(こんどう わたる)

J-POWER(電源開発株式会社)竹原火力発電所勤務

1987年、父が東京電力、祖父が日本原子力発電、曽祖父が日本発送電という電力一家に生まれる。

2012年に入社し、石炭火力発電所の運転業務をしながら、炉内混炭燃焼試験などを通して火属性スキル(石炭燃焼技術とも言う)を磨いている。

 

4.本ブログの記載内容は筆者の個人的見解です。所属企業・団体とは一切関係ありません。

 

 

5.本ブログに対する忌憚なき批判を、巨細の別なく歓迎いたします。